韓国ドラマ『千秋太后』の主人公である千秋太后。
ドラマでは、高麗を強国にするため、自ら戦線に赴いて敵と戦ったり、摂政(国王に代わって政事を行なう立場)として国政を主導したりしました。
千秋太后は実在した人物です。
劇中では、契丹との抗戦、兄の成宗(ソンジョン、高麗6代王)との対立、キム・チヤンとの恋関係など、さまざまな姿が描かれましたが、史実ではどうだったでしょうか?
この記事では、千秋太后の生涯について、高麗の歴史書(『高麗史』『高麗史節要』)や研究論文に基づいて詳しく解説していきます。
記事の最後では、千秋太后をめぐるドラマと史実の違いについて解説しております。
千秋太后の詳細
千秋太后の基本情報
姓名:皇甫氏
出生年:964年(光宗15年)
死亡年:1029年(顕宗20年)
号:崇徳宮、献哀王太后、応天啓聖静徳王太后
家族構成
祖父:太祖(初代王)
祖母:神静王太后皇甫氏
父:戴宗王旭
母:宣義王后柳氏
兄:成宗(6代王)
妹:献貞王后皇甫氏
配偶者:景宗(5代王)
息子:穆宗(7代王)
愛人:金致陽
息子:※姓名不明
※詳細は家系図を参照
千秋太后の生涯
生い立ちと家系
千秋太后が誕生したのは、964年。高麗4代王・光宗(クァンジョン)の時代でした。
彼女の父は太祖(テジョ、高麗初代王)の息子である王旭(ワン・ウク、※戴宗とも言う)、母は太祖の娘である宣義王后柳氏でした。
父の王旭は太祖の第4妃である神静王太后皇甫氏の息子であり、母の宣義王后柳氏は太祖の第6妃である貞徳王后柳氏の娘でした。

※筆者作成
すなわち、千秋太后の父母は、いずれも太祖の子だったわけです。

異母兄妹が結婚し、千秋太后を産んだことになります。現代では考え難いかもしれませんが、この時代では普通のことでした。
なぜ、千秋太后の母である宣義王后柳氏は、太祖の娘なのにもかかわらず、父方の王氏ではなく、母方の柳氏を姓としていたのでしょうか?
これには、「同性婚を避けるため」という理由もありましたが、実はもっと重要な理由がありました。
それは、背後にいる豪族勢力の存在です。
高麗の初期というのは、地方豪族の力が強い時代でした。
このことは、太祖(初代王)が豪族に対する融和策として、各地の豪族の娘たちと婚姻をしたことが物語っています。
宣義王后の母である貞徳王后も、そうした中で太祖の妃となった一人でした。彼女は貞州の有力豪族である柳氏(貞州柳氏)の娘だったからです。
つまり、太祖の第6妃・貞徳王后の背後には、貞州柳氏が存在したわけです。
となると、当然、貞徳王后の娘である宣義王后の背後にも、貞州柳氏が存在したことは明白でしょう。
宣義王后が母方の柳氏を名乗ることになったのは、背後にいる有力豪族・貞州柳氏の強い影響力によるものだったのです。
一方で、宣義王后柳氏の娘として産まれた千秋太后は、母の姓である柳氏ではなく、祖母の姓である皇甫氏を名乗りました。
なぜ、千秋太后は、母ではなく祖母の姓を名乗ることになったのか。これから見ていくことにしましょう。
「千秋太后」という呼び名は、のちに彼女が摂政に就いたとき、「千秋殿」という建物に居住したことに由来します。なので、厳密に言えば、この段階では、彼女はまだ千秋太后と呼ばれていないため、「皇甫氏」と表記するのが適切です。ただし、この記事では、混乱を避けるため、あえて最初から「千秋太后」と表記しています。
景宗の妃となり、息子を産む
千秋太后は早くに父母を亡くし、兄の王治(ワン・チ、※のちの成宗)や妹(※のちの献貞王后)とともに、祖母である神静王太后の懐で育ちました。
神静王太后は黄州の有力豪族である皇甫氏の娘であり、太祖(テジョ、高麗初代王)の第4妃でした。
千秋太后が皇甫氏を名乗ったのは、彼女を育てた神静王太后の背後に、強大な力を有する黄州皇甫氏の存在があったからです。



仮に、母である宣義王后柳氏が早世せず、千秋太后を育てていれば、彼女の姓は柳氏になっていたかもしれません。
やがて、千秋太后は妹とともに、高麗5代王・景宗(キョンジョン)に嫁ぐことになります。
景宗にはすでに2人の妃がいたため、千秋太后は第3妃として、その妹は第4妃として迎え入れられました。
なぜ、彼女たちは二人揃って、景宗と婚姻することになったのでしょうか?
このとき、彼女たちの婚姻を主管したのは、祖母である神静王太后でしたが、その背後には黄州皇甫氏がいました。
黄州皇甫氏は、彼女たちを景宗に嫁がせることで、王室とのつながりを強固なものにしようとしたのです。
いずれにせよ、こうして千秋太后は景宗の妃となったのでした。
ちなみに、千秋太后の景宗の妃としての号を「献哀王太后」と言い、その妹の号を「献貞王后」と言います。
980年、千秋太后(献哀王太后)は息子の王誦(ワン・ソン、※のちの穆宗)を産みました。
ところが、翌年(981年)、景宗が病死し、千秋太后(献哀王太后)は早くも未亡人となってしまいます。このとき、彼女の年齢は18歳に過ぎませんでした。
実兄が国王になる(成宗の即位)
景宗が世を去ったとき、息子の王誦(ワン・ソン、※のちの穆宗)は、生後1年を過ぎたばかりの幼子。とても王位を継ぐことはできませんでした。
そこで、千秋太后の実兄である王治(ワン・チ)が王位に就きました。第6代王・成宗(ソンジョン)の即位です。
成宗は黄州皇甫氏の出自なので、当然ではありますが、この即位に際しても黄州皇甫氏の後援がありました。
ですが、成宗は即位すると、黄州皇甫氏などの近畿系(開京に近い地域)の大豪族よりも、慶州系(慶州一帯の非豪族出身者たち)や羅州系(羅州一帯の中小豪族たち)を重用しました。
なぜ、成宗は即位に力添えしてくれた近畿系の大豪族ではなく、慶州系や羅州系の者たちを重用したのでしょうか?
それは、彼が王権の強化を目指していたからです。
成宗は儒教を基本理念として中央集権体制を強化し、王権を強化しようとしていました。
慶州系や羅州系は、そんな成宗の理念に共感していました。
特に、慶州系は中国をモデルとした儒教的・華風的な政治路線を望んでいたため、成宗の理念と通ずるところが大きかったのです。
こういう理由で、成宗は慶州系や羅州系を重用したわけですね。
987年には、成宗は仏教行事である燃灯会や八関会を廃止するなど、儒教的な理念に基づいた政治体制をさらに強化していきました。
一方、こうした成宗や慶州系・羅州系が主導する政治路線や王権強化に対し、近機系は面白く思っていませんでした。
近機系の豪族としては、王権が強化されれば、それだけ自らの権益が脅かされるからです。
しかも、近機系は土風的な政治を望んでおり、慶州系が主導する急進的な華風化路線も忌み嫌っていました。
こうして、しばらくは慶州系・羅州系が政治の主導権を握る状況が続きました。
ところが、やがて北方の大国・契丹の勢力拡大によって中国王朝の宋が弱体化すると、高麗国内においても、中国をモデルに政治運営をしてきた慶州系の立場は狭まっていくこととなります。
息子の王誦(ワン・ソン)が後継者となる
慶州系の勢力が弱まると、黄州皇甫氏を始めとする近畿系の豪族たちは、この好機に乗じて、景宗と千秋太后の息子である王誦(ワン・ソン)の太子冊立を請願したと考えられています。
千秋太后(皇甫氏)の息子である王誦が王位に就けば、黄州皇甫氏としては、背後から政界に影響力を及ぼすことができたからです。



このとき、千秋太后自身も、息子の太子冊立を望んだとされます。
990年、成宗(ソンジョン)は黄州皇甫氏の拠点とも言える西京に行幸し、王誦に開寧君の号を与え、政務を補佐させました。
これは、太子冊立に準ずる措置であり、王誦を後継者として公式に宣言したものでした。
成宗は近畿系の主張を受け入れたわけです。
それほどに、近畿系(特に黄州皇甫氏)の勢力が拡大していたことをうかがわせます。
王郁(ワン・ウク)を排除する
992年、王族の王郁(ワン・ウク)が献貞王后(千秋太后の妹)と私通した罪に問われ、流刑に処されるという事件が発生します。
高麗の歴史書である『高麗史』によれば、王郁と献貞王后の私通は、「家人(家の使用人)」が暴露したことで発覚したことになっています(『高麗史』巻88、列伝第1、后妃1、献貞王后皇甫氏)。
ですが、一説によれば、彼らの私通が発覚したのには、近畿系と千秋太后(皇甫氏)が一枚噛んでいるのではないかと考えられています。
王郁は太祖の息子であるため、王位継承者となり得る存在でした。
そうなると、王誦(ワン・ソン、※千秋太后の息子、のちの穆宗)に王位を継承させたい近畿系や千秋太后(皇甫氏)にとって、王郁は邪魔者にほかなりません。
しかも、王郁は新羅王室の血を引いていたため、彼が王位に就けば、かつての新羅の都(慶州)を本拠地とする慶州系の勢力が優位になることは目に見えていました。
そこで、近畿系と千秋太后(皇甫氏)は、王郁と献貞王后の私通を明るみに出すことで、万一にも王郁が王位継承者となることを阻止したのではないかと考えられています。
ただ、事件発覚の真相がどうであれ、王郁の流刑により、近畿系と千秋太后(皇甫氏)が有利な立場を得たことは間違いありません。



ちなみに、このとき王郁と献貞王后の間に産まれた子が、のちに8代王・顕宗となる王詢(ワン・スン)です。
徐熙(ソ・ヒ)が契丹を退け、近畿系が政権を獲得する
993年、契丹の東京留守蕭遜寧が80万と号する軍勢を率い、高麗に侵攻をしてきました。
契丹の侵攻を受け、高麗は緒戦で敗北したものの、徐熙(ソ・ヒ)率いる軍勢が蓬山郡で契丹軍を食い止めたことで、両軍が対峙する状況となります。
その一方で、契丹は分隊を安戎鎮に派遣しましたが、高麗の中郎将(正5品の武官職)大道秀(テ・ドス)、郎将(正6品の武官職)庾方(ユ・バン)らが奮闘し、これを退けることに成功します。


画像:安周燮(2003)、p.45、韓国教員大学歴史教育科(2006)、p.73をもとに筆者作成
蓬山郡での対峙が続く中、契丹の蕭遜寧は高麗に対して降伏を勧誘しました。
これを受けて、高麗朝廷の臣下たちは議論して、降伏論や割地論(降伏はしないが土地を割譲することで撤退してもらう)を主張。
降伏するか、あるいは降伏を避けて土地を失うか、いずれも消極的な主張でした。
高麗は緒戦で敗北したうえ、蕭遜寧が「80万の軍勢」を率いてきたと脅してきたので、臣下たちも相当に萎縮していたのでしょう。
結局、成宗(ソンジョン、高麗6代王)は割地論を受け入れ、契丹に土地を割譲することを決断しました。
ところが、そのような中、戦争司令官の一人であった徐熙(ソ・ヒ)が国王を諌め、割地論を猛烈に批判します。
ついに、成宗はこの諫言を聞き入れ、割地論を諦めて契丹との講和を模索することにしました。
それから、成宗は徐熙を契丹陣営に送り出し、蕭遜寧と講和会談を行なわせました。
徐熙は巧みな弁舌で会談を有利に導き、高麗優位の講和を取り結ぶことに成功。講和が成立すると、契丹軍は撤退していきました。
ところで、今回の戦争で大きな功績を上げた徐熙は、近畿系出身の大臣でした。
徐熙の活躍により、高麗朝廷における近畿系の発言力はさらに増すことになり、今や彼らが政権を獲得したと言っても過言ではありませんでした。
反対に、降伏論や割地論を主張していた者たちは勢力を失っていきました。
※徐熙(ソ・ヒ)の生涯や講和会談の詳細は、以下の記事で解説しております。


穆宗が即位し、摂政となる
997年、病床の成宗(ソンジョン、高麗6代王)が開寧君王誦(ワン・ソン)に譲位しました。高麗7代王・穆宗(モクチョン)の即位です。



近畿系と千秋太后(皇甫氏)の念願が叶ったわけですね。
その後、まもなく成宗は世を去り、穆宗の治世が始まりました。
ところが、穆宗の治世が始まると、母后である千秋太后が摂政(国王に代わって政事を行なうこと、またその立場)となり、政事を執り行ないました。
通常、摂政は君主が幼少、あるいは病気などで親政ができない場合に行なわれるものです。
即位当時、穆宗の年齢は18歳。特段、病気を持っていたという記録もありません。
それなのに、なぜ千秋太后が摂政を行なうことになったのでしょうか?
実は、太后が摂政を行なった理由は歴史書に記されておらず、実際のところはよく分かりません。
ですが、研究者によれば、太后が摂政を務めた理由は、穆宗の能力が低かったためか、もしくは彼女自身が権力を欲していたからではないかと考えられています。
『高麗史』は穆宗について、「弓術や騎馬に長け、酒を楽しみ、狩猟を好み、政事に留意しなかった」(世家3、穆宗12年2月3日)と記しています。
こうした状況も、太后の摂政を後押ししたかもしれません。
ただし、摂政になったからといって、決して、太后が完全に権力を独占したわけではありません。
太后の背後には、これまで後ろ盾として、穆宗の即位にも尽力した近畿系の豪族たちが存在しました。
太后は彼らを中心に重用し、共に政治を運営していったのです。
その中には、成宗代以来の重臣である徐熙(ソ・ヒ)・朴良柔(パク・ヤンユ)・韓彦恭(ハン・オンゴン)などのほか、新たに登用された皇甫兪義(ファンボ・ユイ)・蔡忠順(チェ・チュンスン)などの新進勢力もいました。
また、成宗代に太后との間で醜聞(スキャンダル)を起こした罪で流刑に処された金致陽(キム・チヤン)が再登用されました。彼は以後、急速に出世を果たすことになります。



金致陽は千秋太后の愛人でした。彼の再登用は、太后の意向だったのでしょう。
このように、太后は成宗代以来の近畿系勢力に加え、新たに登用した者たち(主に近畿系)を交えて政権を構成し、政治を運営しました。


摂政として様々な政策を実行する
千秋太后は摂政として、具体的にどのような政策を打ち出したのでしょうか?簡単に通覧してみましょう。
官僚制を整備し、王権を強化する
千秋太后は、新たな官庁や官職を創設するとともに既存の官職を増設し、成宗代以来の官僚、それから新たに登用した者たちを積極的に官僚機構に編成していきました。
それと同時に、田柴科(官僚に土地を支給する制度)を改正しました。
これまでの田柴科は、豪族と妥協のもと、個人の人柄を基準に土地を支給する制度でした。
ですが、この改正により、田柴科は官職を基準に土地を支給する制度に変わりました。
つまり、有力豪族であろうが、人柄がいかに優れていようが、支給される土地の大小は、官職が高いか低いかによって決まるようになったのです。
このような政策は、太后が豪族を国家の官僚制内に一元化し、王権や中央集権制を強化するものでした。
一見、王権の強化は、近畿系を始めとする豪族の不満を煽りそうなものです。
しかし、太后はそうした豪族たちを重要なポストに任命し、彼らの既得権益を保護したので、特に豪族たちも不満を抱くことはなかったようです。
太后の巧みな政治手腕がうかがえますね。
宋・契丹と外交関係を維持する
993年に徐熙(ソ・ヒ)の活躍により、高麗は契丹と講和をしましたが、それ以来、高麗は契丹の年号を使用し、契丹から冊封を受けてきました。
一方、摂政となった千秋太后は、契丹から冊封を受けながらも、中国の宋に使者を派遣し、中国王朝との関係も維持しました。
宋と契丹、双方と関係性を築くことで、どちらか一方に偏らずに、自主性を堅持したのです。
軍事力を強化する
千秋太后は契丹と外交関係を保ちつつも、その契丹の侵略に備えて、軍事力を強化していきました。
具体的には、高麗の中央軍である六衛の職員を整え、中央の親衛軍である二軍(鷹揚軍・龍虎軍)を新たに創設しました(『高麗史』巻77、志第31、百官2、西班)。
六衛の整備や二軍の設置時期については、別の時代(成宗代や顕宗代)であったという説もありますが、ここでは『高麗史』の記述に従い、穆宗代(千秋太后の摂政期)のこととして扱っています。
六衛と二軍は併せて二軍六衛と呼ばれ、高麗中央軍の中核組織でした。
それに加え、太后は田柴科(官僚に土地を支給する制度)の対象を拡大し、軍人にも土地を支給するようにしました。
これまで、田柴科による土地支給の対象は文臣だけでしたが、この改正により、軍人にも土地が支給されるようになったのです。
このような政策を見ると、太后が軍事力の強化に積極的であったことがうかがえます。
西京を鎬京と改称する
千秋太后は西京に対する優遇策を展開しました。
それを象徴するのが、西京を鎬京と改称したことです。
鎬京とは、中国の古代王朝である周の武王が最初に都を置いた場所でした(現在の中国・陝西省・西安市)。
千秋太后は、周が鎬京に都を置いたことに習い、西京を鎬京と改称することで、「西京が本来の都である」ことを示したのだと思われます。
また、穆宗(モクチョン)が在位中、4回にわたって西京行幸を実施したことも注目されます。これも、太后の意向によるものだったと考えられています。
それだけ、太后が都である開京よりも、西京を重視していたことが分かります。
もちろん、太后が西京を重視したのは、彼女自身が西京に近い黄州の出身であり、彼女を後援していた勢力も黄州皇甫氏を中心とする近畿系(言い換えれば北方系)だったからです。
金致陽(キム・チヤン)と私通し、子を産む
1003年、千秋太后は愛人の金致陽(キム・チヤン)と私通し、息子を産みました。
太后と金致陽は、成宗(ソンジョン)の時代から愛し合っていたようですが、このときに至って、ついに子をもうけたのでした。
この頃、金致陽はすでに右僕射兼三司事という高官職に就いており、権力をほしいままに振るっていました。
『高麗史』によれば、百官の人事権は全て彼の手から出るようになり、その親族や一味が要職を占め、勢力は国中に及んだといいます(『高麗史』巻127、列伝第40、叛逆1、金致陽)。
今や高麗朝廷は太后と金致陽の天下と言えました。
そんな中、太后と金致陽は、息子が生まれると、その息子を穆宗(モクチョン)の後継者にしようと企てるようになります。
一方で、穆宗(モクチョン)は金致陽を恨み、常に追放したいと思っていましたが、母后の意に逆らうことを恐れ、結局は実行することができなかったとされます。
※金致陽(キム・チヤン)については、以下の記事で詳しく解説しています。


大良院君を僧侶にして追放する
自分たちの息子に王位を継がせたい千秋太后と金致陽(キム・チヤン)は、王位継承の有力候補であった大良院君(テリャンウォングン)を邪魔に感じていました。
そこで、太后らは、大良院君を強制的に出家させ、三角山の神穴寺という寺に送ってしまいました。
しかし、それだけでは終わりませんでした。
太后らは何度も神穴寺に人を遣わして、大良院君を殺害しようと企てたのです。
『高麗史』には、太后が女官に命じて、毒入りの酒と餅を大良院君に送らせたというエピソードが残っています。
寺の僧侶の助けにより、大良院君はこれを避けることができましたが、女官が帰ったあと、この酒と餅を庭に撒いたところ、烏と雀が食べてすぐに死んでしまったといいます(『高麗史』巻88、列伝第1、后妃1、献貞王后皇甫氏)。
こうして、大良院君を排除しようと手を尽くした太后と金致陽でしたが、とうとう失敗に終わるのでした。
金致陽が反乱を企てる
穆宗(モクチョン)の治世も末年に差し掛かった頃、ある事件が起きました。
1009年1月、穆宗が燃灯会を開いていたところ、火災が発生し、母后・千秋太后の住む千秋殿が焼失してしまったのです。
これを受けて、穆宗は深く心を痛め、病床に伏すまでに。
あまりにも傷心が大きかったのか、これ以降、穆宗は政事を疎かにするようになりました。



この火災については、金致陽(キム・チヤン)が意図的に起こしたという説もあります。
王が病床に伏すと、金致陽はこの隙に乗じて反乱を企てました。自分と太后の息子を王位に就けるためです。
しかし、この企ては穆宗の側近であった劉忠正(ユ・チュンジョン)の告発により、すぐに穆宗の耳にも伝わります。
金致陽の企てを知った穆宗は、臣下の蔡忠順(チェ・チュンスン)と相談し、大良院君(テリャンウォングン)を迎えて後継者にすることを決断しました。
同時に、穆宗は自身の身を守るために、西北面都巡検使の康兆(カン・ジョ)を呼び寄せ、護衛させるようにしました。
ところが、この康兆(カン・ジョ)は、穆宗がすでに亡くなって朝廷が金致陽に掌握されたと勘違いし、金致陽の討伐を掲げて王都へ進軍を開始してしまいます。
康兆(カン・ジョ)が政変を起こす
康兆(カン・ジョ)は王都へ進軍する途中、まだ穆宗が存命であり、金致陽(キム・チヤン)も反乱を起こしていなかったという事実を知ります。
実際、金致陽はあくまで反乱を「企てた」だけで、まだ実行には移していませんでした。
康兆はこの事実を知って衝撃を受けますが、もはや挙兵したからには後戻りはできないと悟ります。
そこで、康兆は、「金致陽ら奸悪な者たちが王位を狙っていること」、「王が庾行簡(ユ・ヘンガン)らの讒言や諂いを信じ、国の危機を招いた」などの名分を掲げて王の廃立を決意し、そのまま王都へ進軍を続けました。


康兆が王都に入城して宮殿を掌握すると、穆宗は驚き恐れて、康兆のもとに庾行簡を差し出しました。



穆宗は庾行簡を差し出すことで、何とか康兆に政変を中止してもらおうと思ったのでしょう。
しかし、康兆はそのまま庾行簡を処刑。金致陽父子も殺害し、その一味を流刑としました。
※康兆(カン・ジョ)については、以下の記事で詳しく解説しております。


千秋太后の没落
王都を掌握した康兆(カン・ジョ)は、穆宗と千秋太后を追放し、大良院君(テリャンウォングン)を国王に擁立しました(第8代王・顕宗)。
一方、宮殿を追われた穆宗と太后は、共に忠州(現在の韓国・忠清北道・忠州)へ向かいました。
ところが、康兆(カン・ジョ)が後から人を遣わして、忠州へ向かっていた穆宗に毒薬を献上してきました。
穆宗は毒薬を飲むことを拒否します。
しかし、そうこうしているうちに、王の近衛兵であった安覇(アン・ペ)が穆宗を殺害してしまいました。
こうして、太后は息子を失うこととなりました。
穆宗の死後、太后は故郷である黄州に戻り、ここで余生を過ごしました。
それから時は流れ、1029年。千秋太后は亡くなりました。享年は66歳でした。
一時は国の全権を握った女傑。その最期は侘びしいものだったように思われます。
ところで、千秋太后の没落後、太后の側近だったにもかかわらず、唯一、罪を免れて昇進を遂げた人物がいました。
その名を文仁渭(ムン・イニ)といいます。
彼については、別の記事で解説しているので、興味のある方はご覧ください。


ドラマ『千秋太后』と史実の違い(ネタバレ注意)
※以下、ドラマのネタバレ注意です。
千秋太后は戦に出陣した?
ドラマ『千秋太后』では、千秋太后が自ら戦に出陣し、契丹軍と戦って戦果を上げていました。
しかし、歴史書には、千秋太后が戦に出陣したという記録はありません。
劇中では、彼女自身が刀を振るったり、弓を射たりして戦うシーンが多く描写されましたが、これらは全てドラマのフィクションになります。
ただし、千秋太后が摂政期、契丹の侵略に備えて軍事力を強化する政策を行なったことは事実です。
ドラマでは、このような史実をベースに、千秋太后を武術に長けている設定にし、その敵と戦う姿を映し出すことで、彼女の外敵に対する敵愾心を表現したのもしれません。
千秋太后は契丹の捕虜になった?
ドラマの前半、千秋太后は金致陽(キム・チヤン)とともに契丹の捕虜となり、ここで契丹の蕭太后に出会うこととなりました。
劇中では、この蕭太后との出会いが、彼女の進むべき方向を決定付けるターニングポイントになったと言っても過言ではありませんでした。
しかし、史実においては、千秋太后は契丹の捕虜にはなっていません。実際には、蕭太后と面対することもありませんでした。
なので、千秋太后が契丹で体験した出来事は、全てドラマのフィクションということになります。
金致陽との恋が育まれたのも、この契丹での捕虜生活を通してでしたが、これも史実ではありません(太后と金致陽が愛人関係であったこと自体は史実です)。
千秋太后は謀反を起こした?
ドラマでは、千秋太后は謀反を起こして、実兄である成宗(ソンジョン)を害そうとしました。
千秋太后はこの謀反に失敗して流刑に処されますが、しばらくして成宗に罪を許され、念願であった息子王誦(ワン・ソン)の即位まで叶うことになりました。
しかし、史実では、千秋太后は謀反を起こしていません。
ドラマでは、千秋太后と成宗の対立構造の中で謀反が起こったような形でしたが、そもそも歴史書からは、このような二人の対立構造を見出すことはできません。
確かに、史実においても、成宗が慶州系(ドラマでは「新羅系」と呼ばれている)を重用したのに対し、千秋太后は慶州系と対立する近畿系(ドラマでは「北方系」と呼ばれている)を重用しました。
ですが、これは慶州系と近畿系の派閥的な対立に過ぎず、千秋太后と成宗本人が対立したわけではありませんでした。
ドラマの前半では、成宗が千秋太后を息子に会わせないようにしていましたが、これも実話ではありません。
ドラマで描かれたような二人の対立構造は、実際のところ存在しなかったのです。
千秋太后は大良院君の排除を企てた?
ドラマでは、金致陽(キム・チヤン)が何度も大良院君(テリャンウォングン)を排除しようとするシーンが描かれました。
彼が大良院君を排除しようとしたのは史実です。
金致陽には、大良院君を排除することで、太后との間にもうけた息子を王位に就けたいという意図があったからです。
しかし、史実においては、大良院君の排除を企てたのは、金致陽だけではありませんでした。実は千秋太后も共謀していたのです。
ドラマでは、なるべく千秋太后を「良い」印象にするために、この企てには無関係という設定にしたのかもしれません。
参考文献
- 安周燮『고려 거란 전쟁(高麗契丹戦争)』景仁文化社、2003年
- 韓国教員大学歴史教育科 著(吉田光男 訳)『韓国歴史地図』平凡社、2006年
- 권순형(クォン・スニョン)「고려 목종대 헌애왕태후의 섭정에 대한 고찰(高麗 穆宗代 献哀王太后の摂政に対する考察)」『史學硏究』89号、2008年、pp.49-86
- 李泰鎮「金致陽 亂의 性格 : 高麗初 西京勢力의 政治的 推移와 관련하여(金致陽の乱の性格:高麗初西京勢力の政治的推移と関連して)」『韓國史研究』17号、1977年、pp.67-113
- 『高麗史』巻3、世家第3、成宗16年(997)10月27日
- 『高麗史』巻3、世家第3、穆宗12年(1009)2月3日
- 『高麗史』巻5、世家第5、顕宗20年(1029)1月3日
- 『高麗史』巻77、志第31、百官2、西班
- 『高麗史』巻78、志第32、食貨1、田制、田柴科
- 『高麗史』巻88、列伝第1、后妃1、献哀王太后皇甫氏
- 『高麗史』巻88、列伝第1、后妃1、献貞王后皇甫氏
- 『高麗史』巻90、列伝第3、宗室1、安宗郁
- 『高麗史』巻94、列伝第7、徐熙
- 『高麗史』巻127、列伝第40、叛逆1、金致陽
- 『高麗史』巻127、列伝第40、叛逆1、康兆
- 『高麗史節要』巻2、穆宗6年(1003)
- 『高麗史節要』巻3、顕宗20年(1029)1月3日








