韓国ドラマ『淵蓋蘇文』や『大祚栄』に登場するオン・サムン。
どちらのドラマでも、高句麗を守る将軍として登場しました。
特に、ドラマ『淵蓋蘇文』では、青年期は乙支文徳(ウルチムンドク)将軍やカン・イシク将軍のもとで副将として活躍する姿が、壮年期には遼東城を守る将軍として成長した姿が描かれ、その存在感は小さくありませんでしたね。
オン・サムンは実在した人物です。
この記事では、高句麗の将軍 オン・サムンについて、史実に基づいて解説をしていきます。
後半では、ドラマ『淵蓋蘇文』や『大祚栄』で描かれるオン・サムンと史実との違いも解説しております。
温沙門(オン・サムン)の詳細
温沙門(オン・サムン)の基本情報
姓名:温沙門(オン・サムン)
出生日:不明
死亡日:不明
主な活動時期:高句麗・宝蔵王期
温沙門(オン・サムン)はどんな人?
温沙門(オン・サムン)は、高句麗の第28代宝蔵王(ポジャンワン、在位:642年-668年)期に活動した高句麗の将軍です。
実は、温沙門についての記録は、古代朝鮮の歴史書である『三国史記』及び中国唐代の歴史書である『旧唐書』などに、ごくわずかに残されているだけです。
そのため、温沙門がどのような人物だったのか、その素性は全くと言っていいほどわかりません。
ということで、具体的なことを知ることはできませんが、ここでは、その歴史書に残されたわずかな記録というのを覗いてみることにしましょう。
『三国史記』に見える温沙門
まず、『三国史記』高句麗本紀第10に、次のような記録が残されています。
宝蔵王18年(659)冬11月、唐の右領軍中郎将薛仁貴らが、わが(高句麗の)将軍温沙門と横山で戦い、これ(=温沙門ら高句麗軍)を破った。
『旧唐書』に見える温沙門
次に、『旧唐書』巻83、列伝第33、薛仁貴伝に、次のような記録が残されています。
顕慶2年(657)、(唐の高宗皇帝は)薛仁貴と副将の程名振に命じて、遼東(地域)を征伐させた。(薛仁貴ら唐軍は)貴端城で高句麗軍を破り、斬首3千級を得た。翌年(658)、(薛仁貴は)また梁建方・契苾何力(ら2人の将軍)とともに、高句麗の大将温沙門と横山で戦った。薛仁貴が先に1匹の馬を(敵陣に)送ると、(馬は高句麗が放った弓矢により)避ける余地もなく倒れた。高句麗に弓の巧みな者がいたのである。(その弓の巧みな者は)石城(=不詳)の下で弓を射て(唐軍)数十余人を殺した。ただちに、薛仁貴が単騎で(その者のもとへ)行って突き倒すと、その賊(=高句麗の弓の巧みな者)は弓矢を落としてしまい、なすすべがなくなった。(そこで、薛仁貴)はこの者を生け捕りにした。
温沙門は遼東の横山で唐の将軍薛仁貴と戦い敗北した
上記の『三国史記』『旧唐書』の記録から、温沙門(オン・サムン)は遼東の横山という場所で、唐の将軍薛仁貴と戦って敗北した高句麗の将軍であったことがわかります。
しかし、温沙門については、これ以外に記録がなく、やはり詳しいことはよくわかりません。
『新唐書』『資治通鑑』という中国の歴史書にも温沙門は登場するのですが、そこに記録されている内容は上記の『旧唐書』のものとほぼ同じなので、残念ながら、これ以上に知り得ることはありません。
ドラマ『淵蓋蘇文』『大祚栄』と史実の違い
温沙門(オン・サムン)は温達(オン・ダル)の孫か?
ドラマ『淵蓋蘇文』では、温沙門(オン・サムン)が温達(オン・ダル)の孫という設定になっています。
しかし、歴史書にはそのような記録は残されていないので、史実としては、温沙門(オン・サムン)=温達(オン・ダル)の孫であると確定することはできません。
ただもしかすると、記録されていないだけで、事実である可能性もないとは言えません。このあたりは何とも言えないですね。
温沙門(オン・サムン)は高句麗復興運動に参加したのか?
ドラマ『大祚栄』では、高句麗滅亡後、鉗牟岑(コム・モジャム)らが主導した高句麗復興運動に、温沙門(オン・サムン)が加わっていました。
上で見たように、温沙門についての記録は、横山で薛仁貴と戦ったことしか残されていないので、高句麗復興運動に参加したかどうかはよくわかりません。
これもドラマ側の脚色ということになるでしょう。