【百済】ユンチュン(允忠) は実在の人! ~大耶城を陥落させた百済の将軍~

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ユンチュン(允忠)は、百済の義慈王(ウィジャワン、在位:641年-660年)時代に活躍した百済の将軍です。

ユンチュン(允忠)は、韓国ドラマ『階伯(ケベク)』『善徳女王』『大王の夢』などにも登場していました。

特に、ドラマ『階伯』では、義直(ウィジク)将軍・殷相(ウンサン)将軍とともに、百済を守る忠節な将軍として描かれていました。

ユンチュン(允忠)は実在した人物です。

この記事では、百済の将軍 ユンチュン(允忠)について、史実に基づいて解説をしていきます。

後半では、ドラマ『階伯』で描かれるユンチュン(允忠)と史実との違いも解説しております。

允忠(ユンチュン)の詳細

允忠(ユンチュン)の基本情報

姓名:允忠(ユンチュン)
出生日:不明
死亡日:不明
主な活動時期:百済・義慈王期

允忠(ユンチュン)はどんな人?

允忠(ユンチュン)は、百済の義慈王(ウィジャワン、在位:641年-660年)時代に活躍した百済の将軍です。

ただ、允忠についての記録はそれほど多くなく、古代朝鮮の歴史書である『三国史記』に、3つほど見られるだけです。

ここでは、『三国史記』に見える允忠についての記録3つを挙げたうえで、それを踏まえて解説を加えることにします。

結論だけ知りたい方は、允忠(ユンチュン)は新羅の大耶城を陥落させた百済の将軍までジャンプをお願いいたします。

『三国史記』に見える允忠についての3つの記録

ここでは、実際に『三国史記』に見える允忠についての記録3つを確認してみることにしましょう。

1つ目の記録は、『三国史記』百済本紀、義慈王2年(642)8月条に、次のように残されています。

〔義慈王2年(642)〕8月、将軍允忠に1万の軍を率いて新羅の大耶城を攻撃させた。〔大耶城の〕城主である品釈とその妻子はともに〔城を〕出て降伏した。允忠は〔降伏した品釈とその妻子を〕尽く殺し、その首を斬って王都に送った。〔允忠は新羅人の〕男女1千人余りを捕虜とし、〔彼らを百済〕国の西の州県に分けて住まわせた。〔また、大耶城に〕兵を留めて城を守らせた。王(=義慈王)は允忠の功績を賞して馬20匹、穀1千石を与えた。

2つ目の記録は、『三国史記』新羅本紀、善徳王11年(642)8月条に、次のように残されています。

この月(=8月)、百済の将軍允忠が兵を率いて〔新羅の〕大耶城を攻め落とした。これにより、〔大耶州の〕都督で伊飡(=新羅の官位第2位)の品釈と舎知(=新羅の官位第13位)の竹竹・龍石らが戦死した。

3つ目の記録は、『三国史記』列伝第7、竹竹伝に、次のように残されています。

竹竹は大耶城の人である。父は郝熱で〔官位は〕撰干であった。〔竹竹は〕善徳王のとき舎知(=新羅の官位第13位)となり、大耶城の都督である金品釈のもとで補佐した。〔善徳〕王11年(642)壬寅秋8月、百済の将軍允忠が兵を率いて大耶城を攻めた。これより前、品釈は家臣である黔日の妻が美人であることを知り、これを〔黔日から〕奪ったことがあった。黔日はこのことを恨んでいた。〔そこで、〕今になって〔黔日は敵に〕内応して〔大耶城内の〕倉庫を焼いた。これにより、城内は恐れおののき、固く守ることができなかった。品釈の補佐で阿飡(=新羅の官位第6位)の西川は城壁に登り、〔百済の将軍〕允忠に、「もし、将軍が私たちを殺さないのであれば、降伏しよう」と言った。〔これに対して〕允忠は、「もし、そのようであれば、あなたと一緒に喜ばないことはない。〔この言葉に〕嘘はない」と答えた。〔これを聞き、〕西川は品釈及び諸将士に勧めて城を出ようとした。〔このとき、〕竹竹がこれを止めて、「百済は約束を守らない国ですので、信じてはなりません。しかも、允忠の甘い言葉は、必ず私たちを誘うためのものです。もし、城を出れば、必ず賊(=百済)の捕虜にされるでしょう。逃げ隠れて生き延びようとするぐらいなら、虎と闘って死ぬほうがましです」と言った。〔しかし、〕品釈は〔竹竹の忠告を〕聞かずに門を開けた。士卒が先に出たところ、百済が伏兵を発して尽くこれを殺してしまった。品釈は〔門を〕出ようとしたとき、将士が〔百済の伏兵によって〕死んだことを聞くと、まず〔自分の〕妻子を殺し、〔そのあと〕自ら首を切って死んだ。竹竹は残った兵を集め、城門を閉めて自ら防いだ。舎知の龍石は竹竹に、「今、兵の勢いはこのようであるから、必ず〔城を〕守ることはできない。生きて降伏し、他日を期したほうがよいだろう」と言った。〔これに対し竹竹は〕答えて、「君の言う通りである。しかし、私の父が私を竹竹と名付けたのは、寒くても枯れず、折られても屈しない〔という意味を込めたからである〕。どうして死を恐れて生きて降伏することがあろうか」と言った。ついに、〔竹竹は〕力戦し、城が陥落すると、龍石とともに戦死した。〔善徳〕王はこれを聞いて悲しみ、竹竹に級飡(=新羅の官位第9位)、龍石に大奈麻(=新羅の官位第10位)を追贈し、その妻子を賞して王都に移した。

允忠(ユンチュン)は新羅の大耶城を陥落させた百済の将軍

以上の『三国史記』に見える3つの記録から、允忠(ユンチュン)は642年に新羅の大耶城を陥落させた百済の将軍であったことがわかります。

642年、百済の将軍允忠は1万の軍を率いて、新羅の大耶城(テヤソン 現在の慶尚南道陜川郡)を攻撃し、陥落させました。

『三国史記』百済本紀(百済の歴史が記されている箇所)によれば、このとき、大耶城の城主である品釈(プムソク)とその妻子が百済に降伏したところ、允忠は降伏した品釈と妻子を殺し、その首を王都に送ったとあります。

この記録に従えば、允忠は降伏者すらも殺したことになります。

一方で、『三国史記』新羅本紀(新羅の歴史が記されている箇所)には、允忠が品釈とその妻子を殺したという事実は記されておらず、ただ品釈が戦死したということだけが記されています。

また、『三国史記』竹竹伝(新羅の武人である竹竹の伝記)には、敗北を悟った品釈が自ら妻を手にかけ、その後自らも首を切って死んだとあります。

このように、品釈とその妻子の死については、記録によって内容がまちまちです。そのため、允忠が直接に手を下して彼らを殺したのかどうかは、よくわかりません。

ところで、『三国史記』竹竹伝によれば、降伏するために城門から出てきた新羅の兵士たちを、百済の伏兵が尽く殺したとあります。

これより前、允忠は大耶城の降伏を条件に新羅の将士を殺さないという約束を取り付けていたので、これが事実であれば、その約束を破って殺してしまったことになります。

こうした記録を踏まえると、やはり允忠は降伏者すらも殺す徹底ぶりだったのかもしれませんね。

ドラマ『階伯』と史実の違い

※以下、ドラマのネタバレ注意です。

武王時代の允忠(ユンチュン)はフィクション

ドラマ『階伯』では、允忠(ユンチュン)が武王(ムワン、在位:600年-641年)の時代から登場していました。

しかし、歴史書には武王時代に允忠の記録は存在せず、本当のところはよくわかりません。

允忠が初めて歴史書に現れるのは、義慈王(ウィジャワン)時代、具体的には642年になります。

また、ドラマでは、允忠が椵岑城(カジャムソン)の戦いに参加していましたが、歴史書にそのような記録はないため、これも史実とは言えません。

武王時代の允忠はドラマのフィクションということになります。

プムソク・コタソは義慈王に殺された?

ドラマ『階伯』では、大耶城の城主プムソクとその妻のコタソが、百済の義慈王(ウィジャワン)に殺されました。

しかし、歴史書には、義慈王が彼らを殺したという記録はありません。そもそも、義慈王が大耶城の戦いに直接出向いたのかもわかりません。これはドラマのフィクションと言えるでしょう。

むしろ、プムソクとコタソを殺したのは、義慈王ではなく、将軍允忠(ユンチュン)であった可能性があります。

このことについては、允忠(ユンチュン)は新羅の大耶城を陥落させた百済の将軍で解説しておりますので、気になる方はこちらをご覧ください。

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